掩体壕 大沢1号(東京都 調布市) 北緯35度40分35秒 東経139度31分42秒 |
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○調布飛行場 調布飛行場は、昭和13年(1938年)、東京府北多摩郡調布町・三鷹町・多摩村(現 府中市)にまたがる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られた。 工事は、昭和14年(1939年)に東京府と逓信省航空局・陸軍省の予算で着工した。 基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員された。 昭和16年に4月には、南北方向に1,000mと東西方向に700mの2本の滑走路と格納庫などが完成した。 初め、予備国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用されるはずであったが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配備された。 太平洋戦争の戦況が悪化した昭和20年(1945年)頃には、日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場や近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出た。 また、この頃には、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなった。 戦後、飛行場の西側の一部には「進駐軍」(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する「水耕農場」が建設された。 現在では、伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運航されている。 調布飛行場の周辺には、戦時中に利用されていた門柱・掩体壕・高射砲台座などが残されている。 ○掩体壕 「掩体壕」とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためであった。 太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944年)頃から、コンクリート製の掩体壕約30基(有蓋)と土塁で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の合計約60基が短期間で造られた。 建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大量動員された。 掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運んだ。 調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と調布市に2基の掩体壕が現存している。 ○掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」 「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機である。 エンジン出力は1,100馬力で最高時速590km/hで飛行でき、高空能力に優れ昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用された。 調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備された。 昭和20年(1945年)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃したが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果をあげることはできなかった。 最後には「体当たり」戦術で抵抗したが、戦況がますます悪化する中「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになった。 また、鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されている。 |
IJA | Imperial Japanese Army |
Wartime Concrete Aircraft Hangars "OHSAWA 1" |