歌登 健康回復村 北海道 枝幸郡 枝幸町 歌登辺毛内 北緯44度47分12秒 東経142度31分07秒 |
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軌道の歴史は、昭和2年北海道第2期開拓計画の樹立に始まる。 翌昭和3年4月、雪解けを待って起工された拓殖軌道は、昭和4年12月小頓別から上幌別6線市街までの19kmが開通し、軌道時代の幕開けを告げた。 昭和5年9月に至り、枝幸までの16.15kmも開通し、小頓別〜枝幸35kmの拓殖軌道が完成した。 しかしながら、この最初の軌道は機械力ではなく、レールの上を馬がトロッコを引いて走る、いわゆる馬鉄であった。 その後、志美宇丹、本幌別へと軌条も伸び、昭和10年には総延長58km余り、小頓別〜枝幸は動力も馬力からガソリンカーへと成長した。 そうした中で、志美宇丹のみは、実に昭和53年までの25年間も馬鉄による運航を続けていた。 拓殖軌道は終戦とともに、簡易軌道と改められ、その後実質的な経営も村に任されるようになるが、トラックの出現などにより利用率の低下を招き、昭和25年には歌登〜枝幸と12線〜本幌別の運行を停止した。 昭和27年頃からは、この様な困難な状況の中で、軌道の冬期運行を続けるため、住民は一戸一名づつスコップと手弁当を持って軌道除雪に出勤した。 このように当時の人々は自分たちの生命線を守るため、奉仕活動を毎年数回づつ繰り返した。 昭和37年の町制施行の年には、歌登〜小頓別と歌登〜志美宇丹をディーゼルカーで結ぶが、マイカー時代の到来とともに、次第に収支は逆転し、着々と工事を進めつつあった美幸線にその将来を託し、昭和45年11月、40年に渡る軌道の歴史に終止符を打った。 展示されているディーゼル機関車は、昭和30年代後半から歌登〜小頓別を原木・製材・チップ或いはデンプンなどの産物を満載した4〜5両の貨車を牽引して走った。 料金は、小頓別までの19kmが4トン貨車貸切りで1,500円程であった。 |