スポッターズ的ひこうき写真館                                               飛行機


イギリス空軍 AC-47D FL510(43-48501)

浜名湖畔
静岡県 浜松市 西区 白州町
北緯34度44分09秒 東経137度36分58秒
2014年
2022年

展示されている機体は、全編新潟県佐渡島で撮影された映画「飛べ!ダコタ」で使用した機体である。

この機体は、タイ空軍のAC-47D(43-48501)として使用された後、イギリス軍輸送機C-47Aの塗装となり映画に出演した。
従って、厳密に言えば、イギリス空軍の機体ではない。

(株)川嶋の尽力により新潟県佐渡島から浜松へと友好の絆として譲渡された。

「飛べ!ダコタ」 2013年公開 ; あらすじ

終戦から5か月後の1946年1月14日。佐渡島の高千村の海岸に飛行機が不時着した。その飛行機は上海総領事とその秘書を乗せて東京に向かう途中、エンジントラブルで緊急着陸したイギリス空軍の輸送機「ダコタ」だった。村人たちは英語教師を通訳にして何とか意思疎通を図る。旅館の娘・森本千代子は、幼なじみで元海軍兵学校の木村健一に通訳を依頼するが断られる。健一は兵学校在学中に右足を負傷して帰郷し、その不自由な右足を引きずりながら職に就かずに暮らしていた。

飛行機は前傾して機首が砂浜に埋まった状態であった上、現地には滑走路もなかった。領事たちは船で東京に向かったが、飛行機の乗員は引き続き飛行機で寝泊まりしていた。千代子の父で村長を務める新太郎は村役場の会議で、困っている者を助けるのが佐渡の者(もん)だとして、自分の旅館で逗留させることを提案した。「村長が責任を取るなら」と提案は受け入れられる。娘を敦賀空襲で亡くした消防団長の高橋は、「頭では分かっているが心が受け入れない」と述べた。

乗員の旅館暮らしが始まり、傾いた飛行機を村人の協力で正しい姿勢に戻す作業が行われ、乗員たちは村人に感謝する。健一は恩師でもある国民学校の校長・浜中から、相川の国民学校で臨時教員に就く話を紹介される。しかし、健一は「国のために鬼畜米英を殺せと教えられた自分は、今の子どもに何も教えられない」と答え、浜中は沈黙した。まもなく、「ノタ」と呼ばれる強い風雨が来そうになり、ダコタを今より高い場所に引き上げる必要が生じた。千代子たちは飛行機に綱を結わえて引き上げようとするが、容易には動かなかった。そのとき、高橋が集められるだけの村人を連れて現れ、無事ダコタは引き上げられた。

健一の親友だった村上義治は、ビルマ方面での戦死公報が届いていたが、母の敏江はそれを信じず帰還を待っていた。敏江は海岸で、ダコタ乗員の母親の写真が入ったロケットを拾って返し、乗員に無事母の元に帰ってほしいと話す。だがその直後、戦友によって義治の遺骨が届けられた。悲しみから海に身を投じようとした敏江はダコタ乗員に助けられた。

ダコタ乗員から村に、離陸に必要な滑走路建設への協力依頼が来る。村人たちは海岸を地ならしして石を敷き詰める作業にあたった。一方、健一は知り合いから、海岸のダコタがビルマ方面の司令官マウントバッテンの専用機であったと聞かされる。健一は書き置きを残して夜の海岸に向かい、義治のためダコタに火を付けようとする。だが、イギリス人乗員との格闘で動けなくなったところに、駆けつけた千代子から「殺し合う世の中の方がいいのか」と泣きながら問われ、答えることができなかった。

健一は自首しようとするが、高橋が「自分が間違えて火を付けそうになったのだ」と主張する。高橋による謝罪をイギリス人たちは気にすることはないと受け入れた。やがて滑走路は完成し、祝宴が新太郎の旅館で開かれた。国民学校の生徒たちが「蛍の光」の合唱を披露すると、イギリス人たちは自分たちの知っている歌(オールド・ラング・サイン)が歌われていることに喜び、日英両語の歌声が室内に響いた。

離陸の日、海岸には多くの村人が集まった。「こんなにイギリス人はいい人なのに、自分たちは騙されて戦争に巻き込まれた」という主婦たちに、新太郎は「国民皆が戦争を始めたんだ」と述べるが、「村長さんの言うことは難しい」とかわされてしまう。健一が浜中に、臨時教員になって自分のような人間になるなと教えたいと言うと、浜中は頭を下げてわびた。村人の見送る中、ダコタは無事に佐渡を飛び立っていった。

佐渡島 高千に不時着したダグラスDC-3「シスター アン」

ダグラス社製造番号 : C/N10028
型式        : C-47A-50DL
米軍登録番号    : 42-24166

1943年8月9日
米国カリフォルニア州のダグラス社のロングビーチ工場で生産され、英国空軍(RAF)に「ダコタV/FL510」として引き渡される。

1943年9月20日
インド方面軍のNo.216師団で使用開始。機体はいつしか「シスター アン(Sister Ann)」と命名されたが詳細は不明。しかし一般的には要人専用機として使用された時に当人や機長の母親の名前などを付けられる事が多い。

1946年1月14日
在極東英国領事ら8人を乗せ、上海からマッカーサー元帥を表敬訪問するために東京へ向けて出発。しかし悪天候により佐渡島上空まで流され、外海府の高千海岸に不時着した。着陸時に機体は左主翼を軽く損傷。島民の協力を得ながら修理を進め、40日後に海岸から無事離陸。

1947年1月17日
南東アジア方面の空軍本部の師団長のLord Louis Mountbattenの所属機となり、No.48師団の乗員によって運航。英国の書籍ではこの時より「シスター アン」と名付けられたと記録にあるが、1946年の佐渡島不時着時の写真では明らかに「シスター アン」の文字が機首に描かれているのが分かる。

その後・・・
「シスター アン」はイギリスに戻った後。1957〜1971年フランス空軍で使用された。1972年に、フランス繋がりであるカナダ ケベック州の零細カーゴ会社に売却され、使用者を転々とした。その後、1983年にケベック州北部の、雪で閉ざされるエスキモーやインディアンの集落へ生活物資運ぶトランス フェアー社に行き着いた。スキーを履けるこの大型輸送機は新型機を押しのけて長い間重宝されていた。僻地の空港でも整備され出すとついに売却決定となる。1998年に極寒の地から南国のキューバのエアロタクシー社へ渡り、遊覧飛行で人気を博した。2003年観光客に紛れた6人のキューバ人にハイジャックされ、米国に向かうよう要求される。しかし、僅か1時間後に合衆国のコーストガードに拿捕された。21世紀の今日、この老兵DC-3相手にF-15がスクランブルした事は驚きを越え、またひとつDC-3伝説に加えられた。

その後、エアロタクシー社が機体の所有権を放棄し、競売で米国人の個人オーナーの手に渡った。
現在「シスター アン」はフロリダ州エイボン パーク空港の格納庫に保管されている。


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