10000(EC40 1) 記 (旧)軽井沢駅舎記念館前(長野県 軽井沢町) 北緯36度20分34秒 東経138度38分04秒 |
古代から重要な街道であった中山道に、東京と京都を結ぶ幹線鉄道を建設する計画は、明治初年にたてられ明治18年(1885年)には上野〜横川が開通した。 翌明治19年に幹線が東海道を通ることに決まった後も建設は進められ明治21年には軽井沢〜直江津が開通した。 しかし、碓氷峠の難所を越えるには和美、中尾、入山などのいくつかの経路と、さまざまな建設方式が考えられた末、経路は中尾線に決まり、建設方式としては当時スイス、ドイツなどの山岳鉄道で用いられていたアプト式線路を採用することになり、明治24年に建設を開始した。 アプト式線路は線路の中央にラックレールという歯形の軌条を置き、機関車の下に取り付けた歯車を噛み合わせて走らせる登山用の鉄道で、ドイツ人ローマンアプトが発明したものである。 明治26年4月には66.7/1000という急勾配で標高386.6mの横川と939.1mの軽井沢との間を上り下りする11.2kmの線路が開通した。 10000型(EC40型)電気機関車は、明治44年(1911年)ドイツのAEG社で製作された日本で最初の電気機関車で、横川機関区に配属され横川〜軽井沢を往復していた。 この電気機関車の特徴は車体の下に歯車を取り付け、2個の電動機のうち1個を使ってこの歯車を回し、歯車のラックレールに噛み合って急勾配を上り下りするようになっている。 また、車体の両側にコレクターシュー(集電靴)を取り付け、線路の脇のサードレール(第三軌条)から電気を取って走るようになっている。 トンネルが小さくパンタグラフが使えないので、このような集電方式が取り入れられた。 |
主要緒元 |
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重量 | 46t | |
全長 | 9,550mm | |
電気方式 | 直流600V | |
電動機 | 2個 | |
1時間定格出力 | 420kw | |
最大運転速度 | 普通区間 | 25km/h |
ラック区間 | 18km/h |