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旧日本陸軍 四年式十五糎榴弾砲

四年式十五糎榴弾砲
土浦

小倉城

軍事の進歩と技術の変遷は、野戦において使用する重砲に大きな射程と広射角射撃、更に充分な運動性を要求するようになったが、日本では明治42年頃に、それまで使用していたクルップ社の38式15糎榴弾砲の火力不足が顕著になってきた。

馬による牽引火砲としては重量が重すぎることや、日本人の体格でも操作できる必要性もあり、当時流行していた砲身と砲架を分解して運搬する方法の火砲が研究され始めた。

陸軍技術審査部では緒方少佐(後に大将)を研究主任として設計を開始し、甲号・乙号の2種の15cm榴弾砲を試作した。

甲号・乙号の火砲はさらに数度の試験を繰り返し、その短所を捨て長所を採用した結果、明治44年6月に丙号砲が制作された。

丙号砲はこの後も試験を行われ「試製15糎榴弾砲」と呼称され、明治42年2月に陸軍技術審査部において、重砲兵材料として採用され、若干の修正を加えられた後に4門編成の中隊野砲隊によって研究を行い、砲の運用や火力等の性能が認められた場合には制式化されることとなった。

この陸軍技術審査部の決定により、大正2年11月に4門が製造され、大正3年8月までの間、伊良湖射場における、火砲の抗堪試験や静岡県の板妻や箱根などでの行軍戦闘演習などが行われた。

このように各種の15cmクラスの榴弾砲が試作され試験が行われたが、試製後6年を経て、運搬のときには砲身をはずして車輪と車軸だけの簡単な車の上に載せて砲身車として、それぞれ馬6頭で牽引する新15糎榴弾砲が完成、4年式15糎榴弾砲として制定された。


主要緒元
口径 149.1mm
砲身長 219cm
砲身重量 885kg
閉鎖機様式 垂直鎖栓半自動式
砲架様式 単脚、砲身砲架分解式
重量 2,800kg
方向射界 左右各3度
高低射界 −5度〜+65度
初速 396.9m/s
最大射程 8,800m


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