2022年 |
小田城は、12世紀末に八田知家によって築かれた。 知家は常陸国の守護となり、建久4年には多気義幹を滅ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。 四代時知に至り小田氏を名乗るようになる。 鎌倉幕府が亡びると、七代治久は新政府に参加し、南朝に味方した。 治久は延元3年に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。 親房は城中で「神皇正統記」や「職原抄」を執筆した。 しかし高師冬に包囲され、翌年には治久は師冬に降り、親房は開城へ移った。 戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。 小田氏治は永禄12年の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。 佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせ、政景によって小田城は大規模に改修された。 慶長7年に佐竹氏は秋田へ国替えとなり廃城となった。 小田城は、本丸を中心に三重堀と土塁に囲まれた平城である。 本丸部分を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。 南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。 戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。 更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になり完成した。 小田城は平城として長所を充分に発揮して巧妙に設計されている。 本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入り口には馬出しを設けて、直接進入ができないようにしてある。 郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。 郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。 郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。 |