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海上自衛隊 史料館

鹿屋航空基地 2003年
2010年
2017年

ゼロ戦の特徴
ゼロ戦の名機といわれる所以は、わずか1,000馬力あまりのエンジンでありながら、パイロットの意のままに運動できる操縦性、運動性、強い火力、10時間にも及ぶ航続力など当時の世界水準を遙かにしのぐ優れた性能を持っていたところにある。

零戦開発の経緯
旧日本海軍は1937年に96式艦上戦闘機の後継機として、当時の常識を越えた厳しい要求性能の試作を三菱に命じた。
この要求に応えて三菱の堀越二郎技師を主務者とする設計陣が送り出したのが零戦であった。
96式艦上戦闘機より2割増の出力を有するエンジンを搭載したとはいえ機体重量は大幅に増加し、これで96艦戦並の空戦能力を維持し、双発機並みの航続力、約500km/hの速力、高度5,000mまで約3分30秒以内という上昇力などの要求は、当時としては実現不可能な夢のような性能であった。
堀越技師などは徹底した重量軽減、恒速の可変ピッチプロペラ、完全引き込み脚(尾輪を含む)の採用、水滴型風防、落下増槽、20mm機銃の翼内装備などの新技術を採り入れ1939年4月1日に初飛行に成功した。
1940年には制式採用となり皇紀2600年に因んで零式艦上戦闘機と名付けられた。

零戦の活躍
1940年7月に制式採用となった直後に支那事変に投入され、その優秀な性能と高練度の搭乗員によって中国各地の空中戦で一方的な打撃を加えて制空権を握るという華々しい成果を挙げた。
大東亜戦争(太平洋戦争)の緒戦期における旧日本軍の大勝利は、零戦の活躍なくしてはありえず、連合国にとってのコード名「Zeke」は恐怖の的であったといわれている。
しかし、中期以降2,000馬力級のアメリカ戦闘機に抗し得ず、後継機不在のまま終戦まで主力機として苦闘し、最後は特別攻撃機(特攻機)としても使用されていた。

鹿屋基地史料館に展示されている機体は1992年に錦江湾および吹上浜から揚収された旧日本海軍の零式艦上戦闘機の残骸を基に、三菱重工株式会社名古屋航空宇宙システム製作所(MHI名航所)の技術支援を得て、鹿屋航空工作所を中核とする鹿屋基地所属隊員が復元した零戦52型である。

復元に際しては出来るだけ引き揚げた実機を使用することにしたが、腐食などが甚だしく復元不可能な部分については当時の設計図により規格を同じくして新たに制作したものである。


主要諸元
名称型式 零式艦上戦闘機五二型(A6M5)
プロペラ 住友ハミルトン恒速3枚(直径3.05m)
全幅 11.00m
全長 9.121m
全高 3.57m
主翼面積 21.30m
自重 1,876kg
搭載量 857kg
全備重量 2,733kg
最大速度 564.9kg
航続距離 1,920km
武装 機銃;7.7mm×2(胴体)
機銃;20mm×2(主翼20mm×2())
爆弾;60kg×2
生産数 約10,430機
(11型、21型、52型など各型総計)


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