スポッターズ的ひこうき写真館 城
岡山城
備前の国邑久から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573年)の秋であった。
それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。 その子 八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。 ここにおいて、秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長2年(1597年)3層6階の天守閣が落城するに及んで、城ぶしんは一段落した。 これが、この地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城下町の骨格ができあがった。 宇喜多秀家は、慶長5年(1600年)の関が原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗られて八丈島へ流された。 その後、小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったので、この家は断絶した。 そのあと姫路城主 池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。 以後、池田氏31万5千石の時代が続き明治維新に及んだ。 岡山城の歴代城主と在城期間は以下の通りである。
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