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蹴上インクライン

京都市 左京区

北緯35度00分35秒 東経135度47分22秒
2022年

〇インクライン(傾斜鉄道)

大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代から願望として伝承されてきた。

明治2年の東京遷都以降は衰退する京都経済の復興策として京都府三代目知事;北垣国道、青年技師;田邉朔郎、測量技師;嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年8月、水車動力、舟運、かんがい、精米水車などの多目的な効用をはかるため、疏水開削工事に着手した。

インクラインは、蹴上船溜や南禅寺船溜に到着した船から乗り降りすることなく、坂を船ごと台車に載せて昇降させる目的で建設された。

当初、蹴上から分水した水車動力(20馬力、15KW)により水車場内のウィンチと水中の滑車を回転、ワイヤロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていた。

その後、明治21年に田邉朔郎、高木文平調査委員が訪米し、アスぺン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクラインの動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては日本初の蹴上発電所が建設された。

この電力が世界最長のインクラインに35馬力、25KWを供給するとともに、時計会社に1馬力、0.75KWなど産業用、電灯用として活用された。

明治27年には伏見区堀詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疏水を通じて結ばれ、北陸や近江、大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年には渡航客約13万人を記録した。

しかしながら、時代の流れで大正4年には、京津電車、京阪電車が開通し渡航客が3万人台に激減したのに加え、国鉄(現JR)の東山トンネルが開通して大正10年に山科駅が開設され、京津間の足としての疏水の機能は実質的に失われた。

一方、貨物の輸送は大正14年には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録した。

やがて、陸送化が進み昭和26年9月、砂を積んだ三十石船が最後に下り、疏水舟運60年の任務を終えた。


主要諸元
着工 明治20年 5月
竣工 明治23年 1月
運転開始 明治24年11月
蹴上発電所営業運転開始
約22m
勾配 1/15
所要時間 10〜15分
電動機 直流440V、70A

展示されている「三十石船」は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用していた運輸船を復元したものである。

明治から昭和にかけては、琵琶湖疏水を通航する運輸船により、滋賀と京都の物資(米、薪炭、醤油、酒など)の物流が盛んにおこなわれていた。

琵琶湖疏水の蹴上船溜から南禅寺船溜までの間は、高低差が大きいため、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、坂を昇降させていた。

この地のインクラインは、琵琶湖疏水関連施設として、平成8年に国の史跡に指定された。


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